災害被害者が差別されるとき - 5

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『災害被害者が差別されるとき』

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しかし、私たちはすっかり手を洗ったのであろうか。条件が変われば古い亡霊は復活しないであろうか。
歴史は完全には繰り返さない。関東大震災の修羅場は正確には再現されないであろう。しかし、例えば東アジアに動乱が起こり、ボート・ピープルが日本の津々浦々に押し寄せたとすればどうであろうか。それが数百人ならまだしも、数千、数万となったらどうであろうか。想像力は実際の数字を大幅にふくらませるであろう。そして、この想像力によってふくらんだ数字に対して「自警団」が組織され、「ステロタイプ」が速やかに形成され、官憲もこのステロタイプを助長しないであろうか。
関東大震災の時に大阪や神戸で「自警団」が組織されなかったように、「自警団」の心理的土台は、大局的に見て災害からの距離の関数である。
1995年の震災においても、東京の人々は純粋に同情し、義援金を送り、ボランティアとなることができた。多くの被災者が勤務する場でもある大阪の職場の上司たちは、現実の圧力下にどこまで被災した部下に許容的であるかの線引きを行わなければならなかったのである。
同じように、私たちは、心安んじて、アフリカの難民に同情し、義援金を送り、あるいは「アムネスティ・インターナショナル」に拠って不当な拘禁に抗議のハガキを送ることができる。アフリカは遠いからである。
しかし、朝鮮半島は、中国大陸は、台湾は近い。そして、関東大震災の時の朝鮮の人々のように、言葉によるコミュニケーションが十分にはできなかろう。相手の側にも不安と疑心暗鬼と人間性悪説とエゴイズムは当然あると考えてよい。私たちがそういう場合にどう対処するか、これこそ想像力を働かせるべき勘どころである。この時にこそ私たちの人間性が試される。
私たちは考えたくない事態は起こる確率が少ないと思いがちである。しかし、歴史上、私たちは大陸の政治的変動のたびに多くの難民を受け容れてきた。百済が滅亡した時も大量の難民が渡来してきた。モンゴルの第二回襲来の際に、台風で覆没した艦隊から救助された兵士のうち、モンゴル人は斬られたが、中国人は全国各地に入植させることにした。その数は10万であるという。当時の日本列島の人口の数パーセントに当たるはずである。
一つの希望は、1990年代のボランティアにある。そして、日本の若い層は、関東大震災当時とは比べものにならないほどの海外経験を積んできた。
一つの憂鬱は、現在すでに憂わしい徴候として存在する。それは政治難民の認定に一端をみることができる。送還が死を意味する場合でも政治難民と認定されるのは実に困難であると新聞は報じる。家族離散を意味する程度ならばなおさらである。
世界的に、このように国境が強固になったのは、フランス革命以後の国民国家の成立以来であろう(江戸時代の厳重な関所の伝統を日本の出入国管理局は引き継いでいるかもしれないが)。社会主義体制の崩壊後に世界中で起こっている紛争は、むき出しの人口圧力によって人々が動いた千年二千年前の民族大移動の再来を思わせる。
少子化の進んでいる日本は、周囲の目に見えない人口圧力にたえず曝されている。20世紀西ヨーロッパの諸国が例外なくその人口減少を周囲からの移民によって埋めていることを思えば、好むと好まざるとにかかわらず、遅かれ早かれ同じ事態が日本にも起こるであろう。今フランス人である人で一世紀前もフランス人であった人の子孫は二、三割であるという。現に中小企業の経営者で、外国人労働者なしには事業が成り立たないと公言する人はひとりや二人ではない。外国人労働者と日本人との家庭もすでに珍しくない。人口圧力差に抗って成功した例を私は知らない。好むと好まざるとにかかわらず、この事態が進行する確率は大きい。東アジアに動乱が起こればなおさらである。
アジアに対する日本の今後の貢献は、17世紀のヨーロッパにおけるオランダのように、言論の自由を守り、政治難民に安全な場所を提供することであると私は考えている。アジアで最も言論の自由な国を維持することが日本の存在価値であり、それがなければ百千万言の謝罪も経済的救助もむなしい。残念ながらアジアにおいてそういう国は17世紀のヨーロッパよりもさらに少ない。政治難民が数万、数十万に達する時に、かつての関東大震災の修羅場を反復するか否かが私たちの真価をほんとうに問われる時だろう。それは日本が再び世界の孤児となるか否かを決めるだろう。難民とは被災者であり、被災者差別を論じるときに避けて通ってはならないものである。

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