災害被害者が差別されるとき - 2

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『災害被害者が差別されるとき』

しかし、今回の震災で被災者差別が事実上なかったのは、たまたま好条件が揃っていたからである。衣食足りて礼節を知るということばがあるが、まず、それである。また、人々は全国からの支援を確信し、復興を疑わなかった。最後に治安維持に当ったのが、そういうことに不慣れな旧軍隊ではなく、自衛隊にせよ警察にせよ、威圧的でなかった。
これと対蹠的なのが第二次世界大戦における被災者、疎開者であった。
食料も衣服も欠乏していた。住宅もなかった。そして、戦争はいつ終わるとも知れず、行く先が都市であれば次に爆撃を受ける可能性があった。農山村であれば何よりもまずその中に入り込めるかどうかが問題であった。大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』には疎開者母子の悲惨な姿が描かれているが、そのようなことは至るところにみられただろう。
当時の政府は、各戸の畳数を報告させ、一人当たりの最大限を六畳とし、それ以上ゆとりのある所帯には戦災者を入居させるように命じたが、これはどれだけ実行されただろうか。
都市が爆撃され、命からがら僅かな荷物を持って逃げてくる戦災者たちに、人々は水を与えることは拒まなかっただろうが、食料となるともう怪しかった。そして、家に上がりこまれることにはきわめて消極的。同居には拒絶的であったと聞く。
ここから「自警団」が組織されるまでは、ほんの一歩である。
関東大震災における自警団は被災地の中心に作られたのではない。最もはなはだしい被災地である鎌倉をはじめ三浦半島では、今度の神戸でみられたような共同体感情の横溢がみられた。自警団が作られたのは、横浜でも被害の大きかった港から離れたところ、東京の山手、千葉県とそれに近い地域などであった。作る動機は中心被災地から逃げてくる人たちが物乞いしたり、盗みを働いたり、空き地を占拠したり、果ては家に上り込んだりはしないかという疑心暗鬼である。事実にもとづくのではない。自分ならそうしそうだという自己心理をステロタイプの「被災者」イメージに投影したものである。
「自警団」というものは、現実に被災者差別の温床となりうる危険性がある。
「自警団」のつくられる地域は、被災を全くまぬがれているわけではない「周辺被災地」である。「周辺被災地」にはそれ独特の問題があり、「被災中心地」とは別個に考える必要があることを、私は震災直後から感じた。
まず、周辺被災地は、「まだら被災」「島状被災」である。
被災中心地にも全壊家屋の隣に何事もなかったように立っている家屋があるものだが、しかし、中心地においては烈しい震動を共に体験しており、未曾有の事態に直面している。眼前には倒壊家屋が重なり合い、救援の到来は不確実であり、いつ来るとも知れない。いわば、難破した船から脱出したボートの中の人々である。
救援が絶望的となれば、この人たちにも葛藤が起こってくるに違いないが、さしあたり、同じ救援ボートに乗り合わせた者同士の連帯感のほうがはるかに強い。生き残った幸運を内心喜びながらも、亡くなった人たちへの「生存者罪悪感」のために、それは抑制される。そして生き残りの不確実性が人々を結びつける。
ハイジャックされた航空機乗客の場合には生命への驚異はもっと露わである。ハイジャックされた航空機内の日本人乗客の冷静さは伝説的である。このように極限状況でも連帯感が現れてくる。もっとも、時が経つにつれて、ハイジャッカーへの仲間意識が芽生えて「ストックホルム症候群」が現れてくるであろう。逆説的ながらこれも連帯感の延長とみてよいであろう。ハイジャッカーのほうからもひそかな歩みよりがある。
しかし、周辺被災地においては、事情はかなり異なる。
「まだら被災」という言葉を使ったが、神戸の震災における私の観察では、被災地の倒壊家屋が三割を切ると共同体感情は生じにくくなり、隣人は優位に立ち恩恵を施す救援者として、甘んじて救援を受ける被災者に相対するようになるように見えた。
当然、熟知の人に死者が出るか出ないかの違いと重なっているようである。今度の震災では、遺体はできるだけ人目につかぬように処理された。無残な遺体は遺族との対面さえ確認のための一人を除いてやめるように勧められ、車輌によって遠隔地の火葬場に運ばれた。棺の手配は最優先事項の一つであった(ロサンゼルス郡当局が今回の震災における行動で最も高く評価したのは六千の遺体の迅速な処置である。彼らにはできないことだといった)。それでも炎に包まれながら「ありがとう。もういい。逃げてくれ」と言って死んでいった人たちの映像は、いや人伝てに聞く話でさえ、人々の心を強く打った。他方、見知らぬ人の遺体に対しては、人間は急速に冷淡になりうる。
いずれにしても、ある感情的臨界点があると私は思う。私は倒壊家屋三割が共同体感情の臨界点だという印象を述べたが、ここで思い合わせられるのは、死傷者が三割に達した軍隊は戦闘継続不能とみなされるという臨界点である。その中隊なり分隊はいわば「被災中心地」と等しくなるのだ。この臨界点以下では、その部隊の戦闘の拙劣さや士気の低さが云々される。三割に達すると、激戦を戦い抜いた部隊として後方への名誉の撤退を認められる。欧米の軍隊におけるルールである。
中心地から遠ざかるにつれて、被災が見えなくなる。被災は、こうむるものでなく、見にゆくもの、見物の対象になる。関東大震災では、新宿、中野、杉並あたりから、下町の被災地への見物人が引きもきらなかったという。彼らは一日中、被災地を歩きまわっては、疲労と興奮とともに災害の凄さを語り、被災者の悲惨や常軌を逸した行動を、意識的・無意識的に誇張して語る。多数の無傷な家屋の中で一軒だけ倒壊した場合も見物の対象となるだろう。
今回の震災でも”大阪”からバイクで乗りつけた少年が遺体の発掘を見物していたり、倒壊家屋の前でピースサインをしつつ記念撮影をしたりしていたという。大阪は、隣接大都市として救援に果たした大きな役割にもかかわらず、神戸では一時、「諸悪は大阪より来たる」に近いマイナスの符号を帯びていた。見物人にしても、本当に大阪から来たかどうかは確かめられていないのであるが――。
周辺被災地は、また、救援が後まわしになる傾向がある。忘れられることさえある。ラファエルのいうように「忘れられること」が被災者の最大の危機だとすれば、周辺被災地には「最初から問題にされない」という、これはこれで大きな危機的要因がありうる。
ここでいっておかなければならないのが、どこが被災中心地とみなされて同情と救援が集中するかは必ずしも被害の多少によらないことである。一つにはジャーナリズム、特に人々に直接訴えるテレビが「絵になる」ところを集中的に撮影し放映するからである。長田区と並んで甚大な被害を受け、死者が多かった西宮市は「絵にならない」ためかほとんどテレビに放映されず、要人たちの訪問も少なく、被災中心地の一つであるにもかかわらず、周辺被災地の様相を合わせ持っていた。外来者には東から神戸に至る中継地としてしかみえなかったであろう。火災を起こさなかったために、倒壊した家々はひっそりと圧死者を中に秘めて静かだった。
周辺被災地において被災をまぬがれた人たちにも、多かれ少なかれ、財産、器物の損失はある。かつて「パーキンソンの法則」の一つに、「会議は些少な金額のほうが巨大な金額よりも長時間の議論を生む」というものがあったが、この社会心理学的法則は財産・器物の損失にも当てはまるのではないかと思われる事例に時に遭遇した。骨董品一つの損失は、家屋全体の倒壊に比して些細なはずであるが、この比率に従わずにいつまでも惜しまれる傾向があった。もちろん、そのことは周囲から然るべき共感をもっては迎えられず、「そんな人とは思わなかった」という人格批判にまで発展しかねなかった。
すなわち、周辺被災地には、自然的傾向として、共同体感情が発生しにくく、欲求不満と被害感とが蓄積しやすい。そして、この被害感は圧倒的な現実によるものであるよりは、想像が混り、想像力に支えられたものである。被災中心地に在る者は、なるほど被害は見るも無残であるけれども、それ以上でもそれ以下でもない。白日の下の現実である。想像力は圧倒、いやむしろ麻痺させられている。周辺被災地の想像力は断片的な事実や伝聞を糧にしてふくらんでゆく。

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もう寝なくちゃ。続きはまた明日にでも。