災害被害者が差別されるとき - 4

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『災害被害者が差別されるとき』

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一般に「ステロタイプ」がないところに差別、少なくとも集団的差別はないであろう。逆に、ステロタイプが形成される時、集団的差別はすぐ隣室まで来ている。
関東大震災においては、下町の被災を見物に行っていた同じ人たちが、帰って自警団を結成している。ここでは「被災者のステロタイプ」がすでにできあがっている。そこから「被災便乗者」のステロタイプまではわずかな一歩である。その「便乗」者に「不逞朝鮮人社会主義者の跳梁」が上乗せされていった。これには、周知のとおり、意図的なものが加わっていたけれども。
もとより、火種というものはある。「ステロタイプ」は、人々を迅速に説得しなければならないからだ。
江戸期には「地震文化」とでもいうべきものがあったらしい。オランダの文化人類学者アウエハントの『鯰絵』に始まり、最近、社会学者・北原糸子が精力的に行っている仕事から、その一端を知ることができる。
すなわち、江戸期においては、地震をはじめとする災害は富の再配分の機会と考えられたらしい。地震によって貧しくなる富者がある一方で、倒壊した家屋から財産を略取することによって富人となる機会が貧者に与えられる。地震は「世直し」の一つの契機であり、その象徴である鯰は「鯰大明神」などと神格化され、その絵が大いに売れたらしい。
この「火事場泥棒」がどの程度「制度化」されていたかはわからないが、この「社会通念」は戦災被災者に対する民衆の態度まで生きのびていたらしいが、戦後の災害においては幸いどうやら跡を断ったらしい。

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災害被害者が差別されるとき - 3

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『災害被害者が差別されるとき』

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私は1995年の震災に於いて「自警団」の結成が大々的に行われなかったのは、多くの好条件に支えられてのことだと考えている。むろん、私の知らないところで散発的に結成されたかもしれないが、組織的にはそのことはなかった。
「自警団」を組織しようという主張には、現場においてはつねに説得力がある。反対者は「結成しなくて万一何か(怖いこと)が起こったら知らないよ」という突き放しに対して屈服する。しかし、「自警団」の基礎は、不安と疑心暗鬼と人間性悪説とエゴイズムである。その上に立って「自警団」は被災者に対するステロタイプをつくりあげ、これに対して自らを守ろうとする。「自警団」の対象は現実ではなく想像力に支えられたものである。
周辺被災地あるいは被災地の外周では自分がかろうじて逃れた幸運を感じるけれども、それを表現することは抑えられる。そのうちにこの幸運の賜物を逃すまいという心理に変わる。せっかく残った所有物を奪われまいという気持ちが全面に出てくる。

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災害被害者が差別されるとき - 6

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『災害被害者が差別されるとき』

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最後に、さらに根の深い問題がある。災害が生物学的スティグマを残す場合である。原子力関係である。このような生物学的危険(バイオハザード)を伴う災害は今後もあるものと予見しなければならない。
原子力関係の事故が、最近の東海村での事件より大きな規模で起こることも考えられなくはない。その被害者が広島・長崎の被爆者のような差別を受けることは十分予想できる。その場合に私たちはどのような態度を取るであろうか。この態度決定には宗教者から市民に至るまで、予め現実的な想像力を働かせておかなければならない。

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写経、以上です。

ネットなどをみていると色々な方が様々な考え方を持って今回の大震災について語っています。殊に原発関連の事象についても、個人という力を存分に活用して情報を発信している方もいらっしゃいますし、まあ、たまには将来における自己の優位性を担保したいがための空手形をきりつづけているようにしか見えない方(よくいる陰謀論者)もいらっしゃるのも確かですが、それでもみなさんがこの未曾有の災害に対して「自分に何ができるのか/何をすべきなのか」と心根から考え続けているのは確かなんだと思います。
中井久夫がいうように、天災の後の人災を起こすか起こさないかについては、私たちの人間性の真価/深化が問われているのは間違いないでしょう。
仙台市若林区に住居をおく私の母親の姉は、現在近くの小学校に避難をしています。80歳を超える高齢なのですが、一緒に避難をしている若いご夫婦が長時間並んで買ってきた食料を「これはおばあちゃんの分だから」といって分けてくれたり、帰宅をした人たちが家中の濡れていないタオルや毛布を持ってわざわざ避難所に戻ってきて、「一枚のタオルでも首に巻いておくと暖かいはずだから」と周りの人に配っていると聞きました。また、実際に首都圏の電力消費量は大いに節電の効果が出ているようです。
前後の文脈は忘れてしまったのですが、吉本隆明がああなったらどうする、こうなったらどうするというような設問に応えていわく「にんげんってのはそんなにぼんくらではないですよ」といっていたのを思いだします。オプティミズムに過ぎるのではないかと思ったこの言葉も、上のような話を聞くと、存外間違いではないのではないかと明るい気分になりました。

災害被害者が差別されるとき - 5

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『災害被害者が差別されるとき』

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しかし、私たちはすっかり手を洗ったのであろうか。条件が変われば古い亡霊は復活しないであろうか。
歴史は完全には繰り返さない。関東大震災の修羅場は正確には再現されないであろう。しかし、例えば東アジアに動乱が起こり、ボート・ピープルが日本の津々浦々に押し寄せたとすればどうであろうか。それが数百人ならまだしも、数千、数万となったらどうであろうか。想像力は実際の数字を大幅にふくらませるであろう。そして、この想像力によってふくらんだ数字に対して「自警団」が組織され、「ステロタイプ」が速やかに形成され、官憲もこのステロタイプを助長しないであろうか。
関東大震災の時に大阪や神戸で「自警団」が組織されなかったように、「自警団」の心理的土台は、大局的に見て災害からの距離の関数である。
1995年の震災においても、東京の人々は純粋に同情し、義援金を送り、ボランティアとなることができた。多くの被災者が勤務する場でもある大阪の職場の上司たちは、現実の圧力下にどこまで被災した部下に許容的であるかの線引きを行わなければならなかったのである。
同じように、私たちは、心安んじて、アフリカの難民に同情し、義援金を送り、あるいは「アムネスティ・インターナショナル」に拠って不当な拘禁に抗議のハガキを送ることができる。アフリカは遠いからである。
しかし、朝鮮半島は、中国大陸は、台湾は近い。そして、関東大震災の時の朝鮮の人々のように、言葉によるコミュニケーションが十分にはできなかろう。相手の側にも不安と疑心暗鬼と人間性悪説とエゴイズムは当然あると考えてよい。私たちがそういう場合にどう対処するか、これこそ想像力を働かせるべき勘どころである。この時にこそ私たちの人間性が試される。
私たちは考えたくない事態は起こる確率が少ないと思いがちである。しかし、歴史上、私たちは大陸の政治的変動のたびに多くの難民を受け容れてきた。百済が滅亡した時も大量の難民が渡来してきた。モンゴルの第二回襲来の際に、台風で覆没した艦隊から救助された兵士のうち、モンゴル人は斬られたが、中国人は全国各地に入植させることにした。その数は10万であるという。当時の日本列島の人口の数パーセントに当たるはずである。
一つの希望は、1990年代のボランティアにある。そして、日本の若い層は、関東大震災当時とは比べものにならないほどの海外経験を積んできた。
一つの憂鬱は、現在すでに憂わしい徴候として存在する。それは政治難民の認定に一端をみることができる。送還が死を意味する場合でも政治難民と認定されるのは実に困難であると新聞は報じる。家族離散を意味する程度ならばなおさらである。
世界的に、このように国境が強固になったのは、フランス革命以後の国民国家の成立以来であろう(江戸時代の厳重な関所の伝統を日本の出入国管理局は引き継いでいるかもしれないが)。社会主義体制の崩壊後に世界中で起こっている紛争は、むき出しの人口圧力によって人々が動いた千年二千年前の民族大移動の再来を思わせる。
少子化の進んでいる日本は、周囲の目に見えない人口圧力にたえず曝されている。20世紀西ヨーロッパの諸国が例外なくその人口減少を周囲からの移民によって埋めていることを思えば、好むと好まざるとにかかわらず、遅かれ早かれ同じ事態が日本にも起こるであろう。今フランス人である人で一世紀前もフランス人であった人の子孫は二、三割であるという。現に中小企業の経営者で、外国人労働者なしには事業が成り立たないと公言する人はひとりや二人ではない。外国人労働者と日本人との家庭もすでに珍しくない。人口圧力差に抗って成功した例を私は知らない。好むと好まざるとにかかわらず、この事態が進行する確率は大きい。東アジアに動乱が起こればなおさらである。
アジアに対する日本の今後の貢献は、17世紀のヨーロッパにおけるオランダのように、言論の自由を守り、政治難民に安全な場所を提供することであると私は考えている。アジアで最も言論の自由な国を維持することが日本の存在価値であり、それがなければ百千万言の謝罪も経済的救助もむなしい。残念ながらアジアにおいてそういう国は17世紀のヨーロッパよりもさらに少ない。政治難民が数万、数十万に達する時に、かつての関東大震災の修羅場を反復するか否かが私たちの真価をほんとうに問われる時だろう。それは日本が再び世界の孤児となるか否かを決めるだろう。難民とは被災者であり、被災者差別を論じるときに避けて通ってはならないものである。

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災害被害者が差別されるとき - 2

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『災害被害者が差別されるとき』

しかし、今回の震災で被災者差別が事実上なかったのは、たまたま好条件が揃っていたからである。衣食足りて礼節を知るということばがあるが、まず、それである。また、人々は全国からの支援を確信し、復興を疑わなかった。最後に治安維持に当ったのが、そういうことに不慣れな旧軍隊ではなく、自衛隊にせよ警察にせよ、威圧的でなかった。
これと対蹠的なのが第二次世界大戦における被災者、疎開者であった。
食料も衣服も欠乏していた。住宅もなかった。そして、戦争はいつ終わるとも知れず、行く先が都市であれば次に爆撃を受ける可能性があった。農山村であれば何よりもまずその中に入り込めるかどうかが問題であった。大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』には疎開者母子の悲惨な姿が描かれているが、そのようなことは至るところにみられただろう。
当時の政府は、各戸の畳数を報告させ、一人当たりの最大限を六畳とし、それ以上ゆとりのある所帯には戦災者を入居させるように命じたが、これはどれだけ実行されただろうか。
都市が爆撃され、命からがら僅かな荷物を持って逃げてくる戦災者たちに、人々は水を与えることは拒まなかっただろうが、食料となるともう怪しかった。そして、家に上がりこまれることにはきわめて消極的。同居には拒絶的であったと聞く。
ここから「自警団」が組織されるまでは、ほんの一歩である。
関東大震災における自警団は被災地の中心に作られたのではない。最もはなはだしい被災地である鎌倉をはじめ三浦半島では、今度の神戸でみられたような共同体感情の横溢がみられた。自警団が作られたのは、横浜でも被害の大きかった港から離れたところ、東京の山手、千葉県とそれに近い地域などであった。作る動機は中心被災地から逃げてくる人たちが物乞いしたり、盗みを働いたり、空き地を占拠したり、果ては家に上り込んだりはしないかという疑心暗鬼である。事実にもとづくのではない。自分ならそうしそうだという自己心理をステロタイプの「被災者」イメージに投影したものである。
「自警団」というものは、現実に被災者差別の温床となりうる危険性がある。
「自警団」のつくられる地域は、被災を全くまぬがれているわけではない「周辺被災地」である。「周辺被災地」にはそれ独特の問題があり、「被災中心地」とは別個に考える必要があることを、私は震災直後から感じた。
まず、周辺被災地は、「まだら被災」「島状被災」である。
被災中心地にも全壊家屋の隣に何事もなかったように立っている家屋があるものだが、しかし、中心地においては烈しい震動を共に体験しており、未曾有の事態に直面している。眼前には倒壊家屋が重なり合い、救援の到来は不確実であり、いつ来るとも知れない。いわば、難破した船から脱出したボートの中の人々である。
救援が絶望的となれば、この人たちにも葛藤が起こってくるに違いないが、さしあたり、同じ救援ボートに乗り合わせた者同士の連帯感のほうがはるかに強い。生き残った幸運を内心喜びながらも、亡くなった人たちへの「生存者罪悪感」のために、それは抑制される。そして生き残りの不確実性が人々を結びつける。
ハイジャックされた航空機乗客の場合には生命への驚異はもっと露わである。ハイジャックされた航空機内の日本人乗客の冷静さは伝説的である。このように極限状況でも連帯感が現れてくる。もっとも、時が経つにつれて、ハイジャッカーへの仲間意識が芽生えて「ストックホルム症候群」が現れてくるであろう。逆説的ながらこれも連帯感の延長とみてよいであろう。ハイジャッカーのほうからもひそかな歩みよりがある。
しかし、周辺被災地においては、事情はかなり異なる。
「まだら被災」という言葉を使ったが、神戸の震災における私の観察では、被災地の倒壊家屋が三割を切ると共同体感情は生じにくくなり、隣人は優位に立ち恩恵を施す救援者として、甘んじて救援を受ける被災者に相対するようになるように見えた。
当然、熟知の人に死者が出るか出ないかの違いと重なっているようである。今度の震災では、遺体はできるだけ人目につかぬように処理された。無残な遺体は遺族との対面さえ確認のための一人を除いてやめるように勧められ、車輌によって遠隔地の火葬場に運ばれた。棺の手配は最優先事項の一つであった(ロサンゼルス郡当局が今回の震災における行動で最も高く評価したのは六千の遺体の迅速な処置である。彼らにはできないことだといった)。それでも炎に包まれながら「ありがとう。もういい。逃げてくれ」と言って死んでいった人たちの映像は、いや人伝てに聞く話でさえ、人々の心を強く打った。他方、見知らぬ人の遺体に対しては、人間は急速に冷淡になりうる。
いずれにしても、ある感情的臨界点があると私は思う。私は倒壊家屋三割が共同体感情の臨界点だという印象を述べたが、ここで思い合わせられるのは、死傷者が三割に達した軍隊は戦闘継続不能とみなされるという臨界点である。その中隊なり分隊はいわば「被災中心地」と等しくなるのだ。この臨界点以下では、その部隊の戦闘の拙劣さや士気の低さが云々される。三割に達すると、激戦を戦い抜いた部隊として後方への名誉の撤退を認められる。欧米の軍隊におけるルールである。
中心地から遠ざかるにつれて、被災が見えなくなる。被災は、こうむるものでなく、見にゆくもの、見物の対象になる。関東大震災では、新宿、中野、杉並あたりから、下町の被災地への見物人が引きもきらなかったという。彼らは一日中、被災地を歩きまわっては、疲労と興奮とともに災害の凄さを語り、被災者の悲惨や常軌を逸した行動を、意識的・無意識的に誇張して語る。多数の無傷な家屋の中で一軒だけ倒壊した場合も見物の対象となるだろう。
今回の震災でも”大阪”からバイクで乗りつけた少年が遺体の発掘を見物していたり、倒壊家屋の前でピースサインをしつつ記念撮影をしたりしていたという。大阪は、隣接大都市として救援に果たした大きな役割にもかかわらず、神戸では一時、「諸悪は大阪より来たる」に近いマイナスの符号を帯びていた。見物人にしても、本当に大阪から来たかどうかは確かめられていないのであるが――。
周辺被災地は、また、救援が後まわしになる傾向がある。忘れられることさえある。ラファエルのいうように「忘れられること」が被災者の最大の危機だとすれば、周辺被災地には「最初から問題にされない」という、これはこれで大きな危機的要因がありうる。
ここでいっておかなければならないのが、どこが被災中心地とみなされて同情と救援が集中するかは必ずしも被害の多少によらないことである。一つにはジャーナリズム、特に人々に直接訴えるテレビが「絵になる」ところを集中的に撮影し放映するからである。長田区と並んで甚大な被害を受け、死者が多かった西宮市は「絵にならない」ためかほとんどテレビに放映されず、要人たちの訪問も少なく、被災中心地の一つであるにもかかわらず、周辺被災地の様相を合わせ持っていた。外来者には東から神戸に至る中継地としてしかみえなかったであろう。火災を起こさなかったために、倒壊した家々はひっそりと圧死者を中に秘めて静かだった。
周辺被災地において被災をまぬがれた人たちにも、多かれ少なかれ、財産、器物の損失はある。かつて「パーキンソンの法則」の一つに、「会議は些少な金額のほうが巨大な金額よりも長時間の議論を生む」というものがあったが、この社会心理学的法則は財産・器物の損失にも当てはまるのではないかと思われる事例に時に遭遇した。骨董品一つの損失は、家屋全体の倒壊に比して些細なはずであるが、この比率に従わずにいつまでも惜しまれる傾向があった。もちろん、そのことは周囲から然るべき共感をもっては迎えられず、「そんな人とは思わなかった」という人格批判にまで発展しかねなかった。
すなわち、周辺被災地には、自然的傾向として、共同体感情が発生しにくく、欲求不満と被害感とが蓄積しやすい。そして、この被害感は圧倒的な現実によるものであるよりは、想像が混り、想像力に支えられたものである。被災中心地に在る者は、なるほど被害は見るも無残であるけれども、それ以上でもそれ以下でもない。白日の下の現実である。想像力は圧倒、いやむしろ麻痺させられている。周辺被災地の想像力は断片的な事実や伝聞を糧にしてふくらんでゆく。

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もう寝なくちゃ。続きはまた明日にでも。

災害被害者が差別されるとき - 1

先週末に発生した大震災。その惨状を映像で見続けていると、名状しがたい何かが心の奥に溜まっていくのを感じます。悲しみや怒りなどの直情的な感情というよりは、むしろ遣り切れなさという表現が妥当かもしれません。

23時をまわった頃、テレビを消し、本棚から中井久夫の『時のしずく』をひっぱり出してきて読み始めました。中井久夫中井久夫 - Wikipedia にあるように、精神科医として阪神・淡路大震災被害者の心のケアにあたり、PTSDの研究・紹介を強く進めてきた方です。私は以前から彼の書く一般事象についてのエッセイの大ファンで、博識は当然のこと、一つの論理から飛躍する時のベクトルやスピードがものすごくって初めて読んだ時にはかなりの衝撃を受けました。

この『時のしずく』に掲載されているものに(たぶん)2000年に書かれた『災害被害者が差別されるとき』という文章があります。久しぶりに読んでみて、これはもっと広く読まれるべき文章なのではないかと思いました。今、この状況下において、これほどの示唆に富んだ文章はなかなかないのではないかと。

というわけで、私は現在、そして将来的にやってくるであろう収束の時に向けて、警句として自らの身体に染みこませるため、この文章を『写経』することにしました。1章から6章まであります。

この『写経』を読んで、興味を持った方はぜひ書店にて『時のしずく』を手にとってみてください。あ、初めて読むのなら『清陰星雨』の方が良いかもしれません。どちらもみすず書房様より刊行されております。

時のしずく

時のしずく

清陰星雨

清陰星雨

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『災害被害者が差別されるとき』

もし、きちんとした統計にもとづいて論文を書かなければならないとしたら、私には全くその資格がない。しかし、この主題に限っては、どこにその資料を求めるべきだろうか。
このたびの阪神・淡路大震災ではいろいろなことがあったけれども、震災被害者に対する顕著な差別はなかったと言っても、さほどの異論は出ないのではないか。
差別は、震災被害者の外的・内的の事情に対する無理解や誤解とは別のことである。そういうものなら当然ある。過不足のない理解を外部の人に求めることはそもそも無理であり、被災者もそれを求めはしなかった。また、オーストラリアの災害研究者ラファエル女史は『災害の襲うとき』(邦訳、みすず書房)の中で、被災者にとって最大の危機は忘れられる時であると述べているが、そういう意味でも、阪神・淡路大震災は、これまで日本を襲った災害の中では最も忘れられなかったものといってよいだろう。
外国人差別も市民レベルではなかったといってよい。ただ一つベトナム難民と日本人とが同じ公園に避難した時、日本人側が自警団を作って境界に見張りを立てたことがあった。これに対して、さすがは数々の苦難を乗り越えてきたベトナム難民である。歌と踊りの会を始めた。日本人がその輪に加わり、緊張はたちまちとけて、良性のメルトダウンに終わったそうである。
ただ、こういうことはあった。これは差別というより無理解といってよいか、あるいは理解していた上でのことか。
神戸、芦屋、西宮といった被災地は、大阪のベッドタウンである。震災後数カ月、交通機関は寸断されていた。それでも、神戸、大阪間には三本の鉄道が並行して走っていて、修理ができた区間から運行を始めていた。通勤者たちは、三本の鉄道の運行区間を飛び石のように乗り継ぎ、足りないところは代替バスを使って大阪に通勤したが、もとより長時間を要し、人々の疲労度は普段の比ではなかった。しかも帰宅先は避難所であるか半壊の家であり、そうでなくても散乱した室内を整理し、水や物資を運ばなければならなかった。
そのような期間は地域により人によってまちまちであったけれども、大阪の勤務先がこの点の酌量に乏しかったという苦情をしばしば耳にした。新聞にも一度、「いつまで被災者だということで甘えているんだ」となじられて帰宅後自殺を図ったという記事が載った。この女性は倒壊家屋の中に住んでいた人である。
こういう状況は、また発生するにちがいないから、予め組織ごとに対応方式を決めておくのが望ましいだろう。いざとなってから現場責任者が裁量するというのでは裁量する側もされる側も困惑するだろう。

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