災害被害者が差別されるとき - 1

先週末に発生した大震災。その惨状を映像で見続けていると、名状しがたい何かが心の奥に溜まっていくのを感じます。悲しみや怒りなどの直情的な感情というよりは、むしろ遣り切れなさという表現が妥当かもしれません。

23時をまわった頃、テレビを消し、本棚から中井久夫の『時のしずく』をひっぱり出してきて読み始めました。中井久夫中井久夫 - Wikipedia にあるように、精神科医として阪神・淡路大震災被害者の心のケアにあたり、PTSDの研究・紹介を強く進めてきた方です。私は以前から彼の書く一般事象についてのエッセイの大ファンで、博識は当然のこと、一つの論理から飛躍する時のベクトルやスピードがものすごくって初めて読んだ時にはかなりの衝撃を受けました。

この『時のしずく』に掲載されているものに(たぶん)2000年に書かれた『災害被害者が差別されるとき』という文章があります。久しぶりに読んでみて、これはもっと広く読まれるべき文章なのではないかと思いました。今、この状況下において、これほどの示唆に富んだ文章はなかなかないのではないかと。

というわけで、私は現在、そして将来的にやってくるであろう収束の時に向けて、警句として自らの身体に染みこませるため、この文章を『写経』することにしました。1章から6章まであります。

この『写経』を読んで、興味を持った方はぜひ書店にて『時のしずく』を手にとってみてください。あ、初めて読むのなら『清陰星雨』の方が良いかもしれません。どちらもみすず書房様より刊行されております。

時のしずく

時のしずく

清陰星雨

清陰星雨

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『災害被害者が差別されるとき』

もし、きちんとした統計にもとづいて論文を書かなければならないとしたら、私には全くその資格がない。しかし、この主題に限っては、どこにその資料を求めるべきだろうか。
このたびの阪神・淡路大震災ではいろいろなことがあったけれども、震災被害者に対する顕著な差別はなかったと言っても、さほどの異論は出ないのではないか。
差別は、震災被害者の外的・内的の事情に対する無理解や誤解とは別のことである。そういうものなら当然ある。過不足のない理解を外部の人に求めることはそもそも無理であり、被災者もそれを求めはしなかった。また、オーストラリアの災害研究者ラファエル女史は『災害の襲うとき』(邦訳、みすず書房)の中で、被災者にとって最大の危機は忘れられる時であると述べているが、そういう意味でも、阪神・淡路大震災は、これまで日本を襲った災害の中では最も忘れられなかったものといってよいだろう。
外国人差別も市民レベルではなかったといってよい。ただ一つベトナム難民と日本人とが同じ公園に避難した時、日本人側が自警団を作って境界に見張りを立てたことがあった。これに対して、さすがは数々の苦難を乗り越えてきたベトナム難民である。歌と踊りの会を始めた。日本人がその輪に加わり、緊張はたちまちとけて、良性のメルトダウンに終わったそうである。
ただ、こういうことはあった。これは差別というより無理解といってよいか、あるいは理解していた上でのことか。
神戸、芦屋、西宮といった被災地は、大阪のベッドタウンである。震災後数カ月、交通機関は寸断されていた。それでも、神戸、大阪間には三本の鉄道が並行して走っていて、修理ができた区間から運行を始めていた。通勤者たちは、三本の鉄道の運行区間を飛び石のように乗り継ぎ、足りないところは代替バスを使って大阪に通勤したが、もとより長時間を要し、人々の疲労度は普段の比ではなかった。しかも帰宅先は避難所であるか半壊の家であり、そうでなくても散乱した室内を整理し、水や物資を運ばなければならなかった。
そのような期間は地域により人によってまちまちであったけれども、大阪の勤務先がこの点の酌量に乏しかったという苦情をしばしば耳にした。新聞にも一度、「いつまで被災者だということで甘えているんだ」となじられて帰宅後自殺を図ったという記事が載った。この女性は倒壊家屋の中に住んでいた人である。
こういう状況は、また発生するにちがいないから、予め組織ごとに対応方式を決めておくのが望ましいだろう。いざとなってから現場責任者が裁量するというのでは裁量する側もされる側も困惑するだろう。

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