災害被害者が差別されるとき - 6

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『災害被害者が差別されるとき』

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最後に、さらに根の深い問題がある。災害が生物学的スティグマを残す場合である。原子力関係である。このような生物学的危険(バイオハザード)を伴う災害は今後もあるものと予見しなければならない。
原子力関係の事故が、最近の東海村での事件より大きな規模で起こることも考えられなくはない。その被害者が広島・長崎の被爆者のような差別を受けることは十分予想できる。その場合に私たちはどのような態度を取るであろうか。この態度決定には宗教者から市民に至るまで、予め現実的な想像力を働かせておかなければならない。

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写経、以上です。

ネットなどをみていると色々な方が様々な考え方を持って今回の大震災について語っています。殊に原発関連の事象についても、個人という力を存分に活用して情報を発信している方もいらっしゃいますし、まあ、たまには将来における自己の優位性を担保したいがための空手形をきりつづけているようにしか見えない方(よくいる陰謀論者)もいらっしゃるのも確かですが、それでもみなさんがこの未曾有の災害に対して「自分に何ができるのか/何をすべきなのか」と心根から考え続けているのは確かなんだと思います。
中井久夫がいうように、天災の後の人災を起こすか起こさないかについては、私たちの人間性の真価/深化が問われているのは間違いないでしょう。
仙台市若林区に住居をおく私の母親の姉は、現在近くの小学校に避難をしています。80歳を超える高齢なのですが、一緒に避難をしている若いご夫婦が長時間並んで買ってきた食料を「これはおばあちゃんの分だから」といって分けてくれたり、帰宅をした人たちが家中の濡れていないタオルや毛布を持ってわざわざ避難所に戻ってきて、「一枚のタオルでも首に巻いておくと暖かいはずだから」と周りの人に配っていると聞きました。また、実際に首都圏の電力消費量は大いに節電の効果が出ているようです。
前後の文脈は忘れてしまったのですが、吉本隆明がああなったらどうする、こうなったらどうするというような設問に応えていわく「にんげんってのはそんなにぼんくらではないですよ」といっていたのを思いだします。オプティミズムに過ぎるのではないかと思ったこの言葉も、上のような話を聞くと、存外間違いではないのではないかと明るい気分になりました。